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遺族様インタビュー

お客様よりいただいたインタビューのご紹介です。

2020/02/28 𠮷田美佐子様

「叔父さん、ありがとうね!」 と思いっきり、海に向かって叫んでいた。 あの日の夕陽を一生忘れない!

思いがけない事故で別れは突然に

昨年は台風の被害に悩まされた年でした。9月の大型台風に続き、10月に関東地方に甚大な被害をもたらした台風19号、ハギビス。広い範囲で記録的な大雨となり、甚大な被害の爪痕はいまだに残っています。

その台風の二、三日前に、茨城県で台風に備えて植木を刈込中に男性が屋根から転落して亡くなりました。大久保秀男さん、享年78歳。

大久保さんは独身でしたが、まだまだお元気で、フットワークも軽く、丈夫そのもの。料理から植木の手入れまで生活全般をこなす男性でした。誰もが予期しなかった彼との突然の別れでした。

独り暮らしが長い大久保さんでしたが、彼の死を悼み悲しむ親族の女性がいました。𠮷田美佐子さんです。美佐子さんにとって、大久保さんは義母の弟、つまり夫の母の弟という遠縁にあたります。

一人暮らしの義母を心配して近くに住み、その日も大久保さんは義母の家の植木の刈込をしてくれていたそうです。そして屋根から転落して死亡しているところを発見されました。解剖の結果、折れた肋骨が肺に刺さって亡くなったことがわかりました。 周りは「梯子にはもう乗らないで」とずっと気にかけていたようです。

三年まえに義父が他界した後も、残された義母の世話も一手に引き受けて支えてきました。86歳になった義母は認知症が進み、弟の死を家族が伝えてもすぐに忘れてしまい、「秀男はどこ? 秀男は?」と亡き弟を探し求めます。

栃木県に住む美佐子さんにとって大久保さんは、とても頼りになり、夫の家族を支えてくれる大切な人でした。

大切な人を事故で失った悲しみに、言葉がありませんでした……。

 

美佐子さん「本当に尊敬できる叔父でした。毎月、夫の実家を訪ねる時に会うくらいだったのですが、血縁関係がない分、互いに話しやすかったのかもしれませんね」

 

思いがけない叔父さんの死が美佐子さんには信じられず、ショックでした。

 

美佐子さん「二人きりになると、叔父はこっそり打ち明け話をしてくれるんです。青春の思い出や、東京で働いていた頃の話、アメリカ行きを夢見て準備までしていたこととか……」

 

血縁を越えた家族のような関係

 むしろ血縁関係がない方が本心を話しやすいことってあるかもしれませんね……。

大久保さんは生まれ育った茨城の土地を離れ、若い頃は東京でバリバリ働きながら、アメリカに渡る準備を進めていました。しかし、母親から姉夫婦が開業する診療所を手伝ってやって欲しいと懇願され、渡米の夢を諦めました。それから40年、母親の願い通りに、姉夫婦の診療所の仕事を支えてきました。田舎町の小さな診療所。医療施設の少ない農村地域での診療は、大久保さんの支えなしには成り立たなかったといいます。診療所の運営には医師や看護士だけではなく、様々な仕事をこなせる人が欠かせません。

 

美佐子さん「本当はアメリカに渡って本場のジャズを聴きたかったって、よくこぼしていました……。夢だったけど叶わなかったって……」

 

大久保さんはジャズが大好きで、若い時は日活の俳優に間違われたこともあるハンサムボーイだったとか。

「死後は散骨してほしい」と語った叔父

 

美佐子さん「今思うと不思議なんですけど、叔父が必ず話題にしていたことがあったんです。死後はお墓には入りたくない。海でも山でもいいから散骨して欲しいって。自然に還りたいんだって」

 

特に遺言したということではありません。なにげない日常の会話のなかで、大久保さんは美佐子さんに願いを伝えていたのです。

自由を愛し、植物や花など自然をこよなく愛した人。そんな大久保さんが最期には自然と一体になりたいと考えていたのはわかるような気がします。

勇気を振り絞って提案した分骨

台風の後で、大久保さんの葬儀はしめやかに行われました。しかし、美佐子さんは心の整理もつかない儘でした。喪主を務めたのは大久保さんの甥。大久保さんの兄の息子さんです。お兄様もすでに他界され、甥の方が喪主となり、大久保さんが最期まで長く住んだ町の葬儀会館にて仏式で執り行われました。

血縁者ではない美佐子さんは口を挟める立場でないと思いました。

しかし……。

 

美佐子さん「今、言わなかったら一生後悔すると思ったんです。叔父の願いを僅かでも叶えてあげたくて……」

 

葬儀の際中に、勇気を振り絞って、ご主人に相談をしてみました。案の定、ご主人は母親の実家のことだから、余計な口出しはしないほうが良いと言いましたが、喪主である母方の従兄に「本人の願いを叶えてあげたいから、分骨して散骨をさせてくれないか? 良かったら、うちで責任を持ってやらせてもらうから」とご主人が遠慮がちに聞いてみたのだそうです。

するとあっさり快く了解してもらえて、すぐに分骨することが決まったのです。

火葬の後、小さな骨壺に分骨された大久保さんのご遺骨は美佐子さんご夫婦とともに栃木県のご自宅に戻りました。

勇気ある決断に理解を得られて、美佐子さんを中心に散骨をどうするか、早速準備が始まりました。

 

散骨業者の選択のポイントは?

 美佐子さんが散骨する業者を決める上でのポイントがあったといいます。

1.故人の生まれ育った茨城の海に散骨できること

2.散骨までのプロセスが明解であること

3.自分たちが乗船できて、自分たちの手で他の人の遺骨と一緒にせずに散骨できること

 

 いくつもの会社をあたってみましたが、すべてを適えてくれるところはありませんでした。

そして当社に問い合わせのお電話を頂きました。対応させていただいたのはまだ入社して七カ月という新人の散骨コーディネーターの池田茉依(まい)です。

当社での散骨を決めるに至った経緯や理由、そして実際に粉骨や海洋散骨を体験して感じられたことを、池田とともにお聞きしてみたいと思います。

 

池田「お久しぶりです。今日は栃木からわざわざお越しいただいてありがとうございます」

 

美佐子さん「こちらこそ、その節はお世話になりました。本当に叔父を散骨してあげられて良かったといつも思っているんですよ」

 

池田「私にとって、𠮷田様は忘れがたいお客様のお一人なんです。最初にお電話をいただいてから、粉骨、一緒に乗船して散骨まで通してお世話させていただけて。実はあの時はまだ研修が終わったばかりでして……」

 

美佐子さん「あら、最初からしっかり丁寧に対応してくださいましたよ。私のどんな質問にも明確に答えてくださって。散骨のプロセスに不明瞭なことがなかったこと。粉骨にも立ち会えることが決め手になりました。最初は茨城の海に拘っていたのですが、アメリカに渡ることが夢だった叔父は羽田沖をむしろ喜ぶんじゃないかと思いまして」

ブルーオーシャンカフェでの立会粉骨は?

叔父様の納骨が茨城の実家で無事に行われた後で、美佐子さんは立ち会い粉骨のために、ブルーオーシャンカフェにお越しくださいました。

 

美佐子さん「ブルーとホワイトを基調とした爽やかなインテリアで、一歩お店に入った瞬間にあたたかい、優しい空気を感じました。近所の住民の方や子どもたちが思い思いに過ごしている日常の風景が目の前にあり、緊張していた心がほぐれていくのを感じたんです」

 

池田「あの日、初めて𠮷田様にお会いして、お茶を飲みながらお話をさせていただいたのですよね」

 

美佐子さん「粉骨の前に、カフェでお茶を飲みながら、コーディネーターの方とお話できるのは、落ち着く時間を与えてもらえて貴重だったと思います。かなり緊張していましたから……」

 

池田「散骨に立ち会われていかがでしたか?」

 

美佐子さん「感動でした。 まず粉骨のお部屋も粉骨する機械も清潔にされて、ピッカピカなのにびっくりしました。同時に、遺骨を大切に扱ってくださる気持ちが伝わってきました。遺族にとって、故人の分身でもある遺骨をどのように扱って貰えるかは、一番の気掛かりですから」

 

粉骨する際は遺骨をパウダー状まで砕くため、どうしても大きな音が出てし

まいます。その間は無機質なガーっという音に包まれます。

 

美佐子さん「でも、池田さんの所作がとっても厳かで綺麗だったの。だから気にならなかったですね。池田さんが器具や遺灰を扱う所作が大切な儀式をしてくださっているようで、感動しました。私は子どもの頃から茶道のお稽古をしていますが、茶道の所作のような立ち振舞いに、心おだやかな気持ちになれました」

 

池田「ありがとうございます。私も実は中学の三年間は茶道部に所属していたんですよ。少しは役に立ちましたかね?」

 

美佐子さん「やっぱり、だからなのね。それに粉骨室の壁にグリーフケアを説明したパネルが貼ってあったのに、目が留まりまして。遺族の心を大切にしてくれている会社だと思いました」

 

池田「カフェは散骨から月日がたった後でも、遺族の方同志が辛く寂しい気持ちを分かち合え、語り合える場所にできたらという目的もあって作られたんです」

 

美佐子さん「目に見える葬儀の儀式だけでなく、心を大切にしてくださってくれる会社と感じました。本棚に仏教の本や死生観の本などもいろいろあって……。LGBTの方のご相談にも乗っていらっしゃると伺いました。素晴らしいですね」

池田「私の方は、カフェでもこうしてその場の感想を直にお聞かせいただけて、𠮷田様には本当に感謝しています。すごく嬉しかったです。後でアンケートで伺えることはあるんですが、ふつうはなかなかその場でお客様の声を聞くことは難しくて。励みになりました」

 

粉骨から一週間後、いよいよ海洋散骨の日を迎えました。

強風で出航が危ぶまれる!

12月中旬の散骨当日の朝、栃木からご主人と小5の息子さんと美佐子さんは

花が大好きだった叔父さんのために、色とりどりの花をいっぱい買って、東京へ

向かっていました。

しかし、強風の心配から予定通りに出航することが難しくなりました。担当

の池田からすぐに連絡を入れましたが、電車での移動中の𠮷田様には電話が通

じず、集合時間近くになってやっと連絡することができました。合同乗船プラン

の他のお客様には後日に延期していただくことになりましたが、𠮷田様は遠方

からわざわざいらしてくださり、延期していただくのが難しいとのこと。次の風

速計量の時間まで待って、その結果が大丈夫であれば出航することになりまし

た。

 

美佐子さん「ブルーオーシャンカフェで結果待ちということになりまして。どきどき、はらはらしましたが、幸いなことに無事に出航していただけることになりました。叔父が見守ってくれたのかもしれませんね」

 

「叔父さーん、ありがとう!」と思いのたけを叫んでいた

当初の13時出航の予定を遅らせ、14時半にレノン号で出航することができま

した。さほどの大きな揺れを感じることもなく、東京の名所や景色のクルーズ

を楽しんでもらい、無事に船は羽田沖に着きました。

いよいよお別れの時です。

「叔父さーん、ありがとう!!」

「アメリカで本場のジャズを聴いてきてね!」

「叔父さーん、また会おうね!」

遺灰を包んだ白い袋と花びらを海に撒いて、お別れをしました。

 

美佐子さん「三人がそれぞれの思いのたけを大海原に向かって叫んでいました」

 

レノン号は3周旋回した後、汽笛をならしながら、ゆっくりとその場から離れていきました。

池田「𠮷田様ご家族が揃って、ずっといつまでも大きく手を振っていらしたのが、とても印象に残っています」

 

美佐子さん「あの汽笛の音を聞いたら、ギューッと寂しい気持ちで胸がいっぱいになりました。三人で最後の花びらのひとひらが見えなくなるまで見守りました。扉がパタンと閉められるようにお別れするのではなく、ずっと見守ることができて良かったです。淋しいながらも大自然お預けしたような気持ちになれました」

大自然に抱かれて、自然に還っていった叔父

美佐子さん「あの日は夕陽がすごく綺麗でしたね。強風で出航が遅れたお蔭で、素晴らしい夕陽が見られました!(笑)」

 

池田「本当に無事に出航できて、私も嬉しかったです」

 

美佐子さん「波の音。水しぶき。海の匂い。風を感じて、自然に直に包まれて心を慰められ、解放されるように感じました。叔父も喜んでくれていると思います」

 

𠮷田さんご家族にとって、初めての東京湾のクルーズは忘れられない思い出になりました。あの日の夕陽は一生忘れられないといいます。

お台場付近では、スカイデッキからカモメにエサをあげました。かっぱえびせんをかざすとカモメがいっせいに集まってきます。投げれば、その方へ群がって飛んでいきます。

 

美佐子さん「手から直接とって食べるんですね。たくさんのカモメが寄ってきて、ちょっと怖かったけど、息子は興奮して大はしゃぎ。叔父さんには息子を本当に可愛がって貰いました。叔父さんが側でそんな息子を微笑んで見守ってくれているような気がしました」

 

池田「夏だとカモメがいないので、冬で良かったです」

 

美佐子さん「そうか、カモメって渡り鳥だったんですね」

 

池田「是非、またカモメがいる時に、息子さんもつれてメモリアルクルーズにいらしてくださいね」

 

美佐子さん「是非! 必ずメモリアルクルーズはしたいと思っています。海洋散骨だから、あんな大声で好きなことを叫べましたけど、普通の葬儀では無理ですよね。(笑)」

池田「叔父様にもお気持ちがきっと届いたと思います」

 

家族以上の家族に

人は誰もがいろいろなしがらみの中で生きています。家族が側にいても心の距離は遠く孤独な人。頼れる家族はいないと言っていても、血縁に関わらず支えてくれる出会いに恵まれている人。

大久保さんと𠮷田美佐子さんの関わりから、人のご縁というものを感じます。

家族の絆が脆弱になったと言われていますが、人はそんなに変わるものなので

しょうか?

これまでの家制度が変わり、結婚観や家族観に大きな変化が生じましたが、

人はいつの時代も人間関係や家族に悩み、また支えられてきたのではないでし

ょうか?

𠮷田さんの家のように、血縁に拘らずに少しだけ勇気をだして、自分がしてあ

げたいと思うこと、自分に出来ることをしていくのも素敵ですね。

実は美佐子さんの義父、ご主人のお父様も自然に還る散骨を希望されていた

といいます。農村医療に貢献し多くの人の生死にかかわってきた医師でした。先

祖代々の墓もあり、希望を叶えてあげることはできませんでした。そんな想いが

叔父さんの散骨へ背中を押してくれたと言います。

ご主人も「俺も散骨がいいなー!」と言っているそうです。小5の息子さんに

自然に還る葬送の一つのかたちを体験させてあげられて良かったと言います。

𠮷田さんのお宅では、叔父さんの写真を飾り、いつも話しかけているのだとか……。

 

美佐子さん「形式的なことを嫌う叔父だったので、すこしでも散骨の願いを叶えてあげられて良かったと家族でいつも話しています。叔父は自然の中に溶けて還っていたのだと思います。海に限らず美しい景色を見る度に、叔父が側にいてくれるように折にふれて感じるんです。本当にありがとうございました」

 

池田「私がこの仕事に就いたのは、お客様と親身になってお話ができる仕事だと思ったからです。お客様から学ばせていただくことがいっぱいあります。お客様との距離が近く、やりがいをとても感じることが出来るブル―オーシャンセレモニーの仕事に携われて本当に良かったと思います」

 

美佐子さん「私も池田さんで良かった。本当にお会いできて良かったと思っています」

 

池田「是非、またブルーオーシャンカフェにも、メモリアルクルーズにもいらしてくださいね」

 

美佐子さん「必ず伺わせていただきます。海洋散骨が自然に還る葬送のひとつのかたちとして、これからもっと広く多くのかたに知ってもらいたいですね」

家族のために生きた大久保さんでしたが、本当の意味での大きな家族を築き、人生を立派に全うされたのだと思います。彼が支えたのは姉の家族だけではありません。農村医療の片腕として、三世代にわたる多くの人に寄り添うケアに貢献し、彼に助けられた人がたくさんいました。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

 

池田
インタビューの中で、最初から最後までお手伝いできる機会は少なくなってきているとお話をしました。そうではありますが、お話する度担当が変わってしまうとしても、必ず次の担当にはお客様とお話ししたことを伝えております。
一度でもご一緒したお客様のことは、散骨の日を無事に終えるまでずっと気にかけております。
散骨日にご一緒できなかったとしても、あとで必ず乗船中のお写真を拝見しております。
「無事出航できてよかった」、「いいお天気で迎えられてよかった」、「皆様が笑顔でよかった」を写真から感じて、私自身も安心をします。
お客様に安心して故人様の旅立ちの日を迎えていただけるように、これからもおひとりおひとり大切にお手伝いいたします。

池田

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